中標津こどもクリニックブログ

石原慎太郎逝去

6歳年上の三島由紀夫氏と同じく、日本という国の行く末を最後の最後まで案じていた芥川賞作家石原慎太郎氏が亡くなった。

私にとって石原氏は「作家」でも「政治家」でもなく、とても大好きな「人物」でした。
それは、自分の信念を常にしっかりと持ち、はっきりとした物言いで、誰に対しても、大衆に対しても臆することなく発信し、発言のままに行動するというわかりやすくシンプルであるその行動様式が「かっこいい」と思えたからです。

時には「三国人」「支那」などの「さすがにそれはNGでしょ」という暴走もありましたが、そんな時にも、いかなる批判も真正面から受け止め、保身に走らず、全くブレることが無い姿にますます私の中での評価を上げました。
次の選挙や、大衆の目を気にする政治家が多い中で、石原氏は言ってみれば選挙に落ちても「世界の石原」であり、自分が正しいと信じるままに行動をし続けました。
それは、純粋ではありますが、見方を変えればまた「青い」とか「幼い」とか、そういった側面を含んでいたのかもしれません。
私自身、よい意味で「いつまでも少年でありたい。」と常々思っているのですが、それをいともたやすく堂々と実践している石原氏の在りようには、憧れを感じていました。

北海道新聞の記事の来歴の部分には小樽での幼少期の部分が重視されていましたが、その後石原氏は父親の転勤で神奈川県逗子市に引っ越しています。
そして私と同じく湘南の地で青春時代を過ごしたであろう石原氏は、私の母校神奈川県立湘南高校の大先輩であります。
自民党内でのタカ派の位置づけとは別次元の問題として、石原氏の極めてリベラルな在りようは「自由な校風」が伝統であった母校で養われたものなのかもしれません。
私の在学中には
昭和24年に甲子園で初出場初優勝をした湘南高校野球部の佐々木信也氏(プロ野球ニュースの初代キャスター)は県立高校の狭いグラウンドのライト側でサッカー部が練習をしているところから、当時からサッカー部の人気者だった石原氏に「なんとか打球をぶつけてやろう」と思っているうちに、ライト打ちの名手になった。
という都市伝説を聞かされました。

母校の大先輩が、私自身が「こうでありたい」という生き方をされているわけで、これはもう憧れの存在であり、その「生きている感」は半端無く、強烈な影響を受けました。
今でもクリニックで「言葉遣いが乱暴です。」と注意を受けることがありますが、石原氏への憧れが知らず知らずの内に、真似をしてはいけない部分にまで影響を受けて(日本語では『かぶれて』と言います)いるのかもしれません。
石原氏が最後の最後まで心配していたこの国に、今後彼の様な骨のある「日本人」が出てくるかどうかはわかりませんが、周囲に怒られないように良いところを選んで真似するようにしたいと思います。

石原慎太郎さん、ご冥福をお祈りします。


『馬鹿』に、されてしまった話

昨日、スーパーで例によって半ズボンで軽快に買い物をしていたら、
同じく買い物中のご夫婦の奥さんが旦那さんに
こんな寒いのに短パンはいてる馬鹿な人がいる。
と、話していたということをううちの奥さんに教えられました。
そんなことくらいで別に腹を立てたりはしないのですが、
失礼ながら残念な人だと思ってしまいました。

人は皆往々にして、自分の経験や、価値観でしかものごとを考えられないものですが、そうであっても
「変わった人がいるね」とか「何だかすごいね」
くらいだったら、何も感じないのですが、
「馬鹿な人がいる」という発言には、これもまた人間が皆持っている
自分と違うものは、劣ったものと考える
という、残念な発想によるものと考えざるを得ません。
例えば白人たちは
「肌の色が黒い人アフリカの人たち」
「髪が赤いスラブの人たち」
「唇が大きく厚いアフリカの人たち」
「目が細くつり上がっているアジア人」
などを、その外見の違いから
「自分たちよりも劣った人種」
と、決め付けて
その人権を認めずに差別、支配、搾取、迫害を繰り返してきました。
また、見た目が同じでも、信じている宗教が違えば、
「異教徒」として、何のためらいも無く残酷な仕打ちを行ないました。

そういった過ちを繰り返さないために、私たちは子どもの頃
みにくいアヒルの子」を読むように促されたのです。
子どもの頃に誰でも一度は読んで、理解して、実践をしたはずなのですが、大人になって油断をしてしまうとアヒルたちと同じことをやりはじめます。
自分と異質なものは、劣ったものであり、何を言ってもかまわない、何をしてもかまわない、という考え方が、
「いじめ」「差別」「虐待」などの根本原因になり得ます。

社会が息苦しくなってきた昨今、金子みすずの
「みんなちがって、みんないい」
という考え方が脚光を浴びていますが、社会の中で満たされていない人は、
ついつい自分と異質な人を認めて受け入れることができずに、
馬鹿にしたり、攻撃したりするものかと思うと、やっぱり悲しい現実を感じます。

その一方で、心にゆとりがあり、見識のある人たちからは、
何度か同じような言葉をかけられた経験があります。それは
寒いのに半ズボンかよっ!外人みたいでかっこいいなぁ!!
というものです。
確かに冬場に薄着の外国人はしばしば見かけるのですが、
それを見て覚えている見識の深さと、
みんなと違うことをプラスに捉えることができる心の広さが、
そういわせるものだと思います。
そんな言葉をかけられると、自分がほめられて気持ちいいとかそういった問題ではなく、そういった言葉をかけることができる人がいるんだということで、うれしい気持ちになります。
自分自身も、そうでありたいと思います。

だんだんと冬が近づきましたが、昨日はそれでもプラスの気温です。
冬になってから件のご夫婦に見られたら、なんて言われてしまうのでしょうか・・・


蒸発する自転車

先日「子どもの心研修会」という研修会に参加するために大阪に行ってきました。
研修は土日の二日間開催だったのですが、一日目が終わった後に会場の梅北(梅田の北側)から程近いホテルにチェックインをして、阪急電車の十三(じゅうそう)駅近くのねぎ焼き(お好み焼きのキャベツが、長ネギに変わったような食べもの)の発祥の地とされる「ねぎ焼きやまもと」まで散歩がてらに食べに行きました。
淀川にかかる昭和のはじめに架けられた国道176号線の「十三大橋」を渡っていたときのことです。
昨今、普通に歩道にいても車にはねられてしまう事故の報道が相次いでいたので、「北海道から大阪に来て車にはねられてはたまらん」と思って、自動車と対面して敵の動きを察知することができる右側の歩道を歩きました(小学校の時に教わった通りです)。
すぐとなりに「新十三大橋」が架かっているからか、全部で4車線ある十三大橋は大阪中心部の梅田方面に向かう車線が3車線、十三に向かう車線が1車線となっています。
したがって、右側通行をしている私は3車線分のヘッドライトと向かい合いながら決して広くはない歩道を歩いているのですが、のんびり歩いていると突然何かが体のすぐ脇を走り抜けました
なんの前触れも無かったのでぎょっとして振り返ると、自転車が走り去って行きました。
もう一度前を見ると、今度はこちらに向かって走ってくる自転車のライトが見えました。
その自転車をやり過ごすと、今度は前方から話し声が近づいてきましたが、声の主は見えません。
身構えていると、二人乗りの自転車が目の前に出現し、次の瞬間にはすれ違っていました。
自動車学校で、「対向車のヘッドライトで横断歩道を渡る歩行者が蒸発する」という現象を教わっていましたが、全く同じことがこちらに向かって走ってくる自転車に起きているということにその時気づきました。
改めて振り返ると、去ってゆく自転車の姿は背後から照らされるヘッドライトでよく見えます。
歩道も明るく見えて、自転車で走るにはライト無しでも全く問題なく走れそうです。
しかしながら、自転車が蒸発しているという事態に、自転車に乗っていらっしゃる方ご自身が全く気づいていないのだとしたら、それは恐ろしいことです。
私自身が経験したように、歩行者の側からすれば姿の見えない高速移動物体が目の前に突然現れるわけです。
大量の自動車の走行音で自転車の走行音はかき消されていますので、接近を知らずに「ちょっと欄干の方に寄るかな」などと左右方向の移動をすれば、自転車との衝突は不可避です。
歩きなれた歩行者はこのメカニズムを百も承知なのかもしれませんが、ライトを点けずに走行していらっしゃる方は、ご自身もまた大きな危険にさらされているわけですから「こちらからは、歩行者が見えるから」ということで、この現象をご存じないのだと思います。
私達のような田舎町では考える必要も無いことなのでしょうけれど、都会ではもっともっと周知啓発していただきたいものです。


靖国神社

先日、高校時代のクラス会があり数年ぶりに同級生達と顔を合わせました。
そんな中であるクラスメイトが靖国神社に足しげく通い、境内に眠る御霊に花を手向けていることを知りました。
現在たまたま靖国神社の近くにお住まいで、お父上が少年兵として太平洋戦争に従軍し心ある人たちの計らいで南方から生きて帰還されたという経緯もあり、生還した者散っていった者のそれぞれの生き様に触れる機会があったという事が背景にあるようですが、根本的なところでは「感じる力と思索する力に長けている人だから」ということなのだと思います。
一方でその同級生である私は、学生時代に中曽根首相の「公式参拝騒動」があり、善悪以前の問題として「軽い気持ちで行っては行けない場所」という認識が生じてしまってついつい行きそびれておりました。
特攻隊の出撃地である知覧は以前に訪れたことがあり、国の明日を思って亡くなっていった若い命に感謝と哀悼の思いを自分なりに伝えてきたことがありましたが、靖国神社はその存在そのもの、そこを参拝すること、などに多くの意見があり、否定的な意見があることも承知していたので「ちゃんと学んで、自分の考えを持ってから」などといっているうちにみるみる無駄に年月が過ぎて行きました。
そんな中、同級生の純粋な気持ちに共感してス〜ッと行ってしまったのですが、結果として彼女にはおおいに感謝しています。日本人として、という以前に戦争をしてしまう人間という種族の一員として、政治的な善悪や、わかるわからない、はその辺に置いといて一度は訪れるべき場所であると思います。
実際に行ってみると、決して広くはない境内ですが、戦地で死を覚悟した兵士達が「靖国で会おう」と言い残して散って行ったという、まさにその場所にいると思うと否が応でも真摯な気持ちで立ち居振舞う自分に気づかされます。
使命というものに殉じ、残る家族への思いを綴った手紙などを見ると、人として崇高な境地までたどり着いたまさに「神」のような気高さを感じます。
それと同時に、そんな尊い魂の持ち主の命が紙くずのように一瞬の内に散らされてしまう戦争の理不尽さに、あらためて耐え難い腹立たしさを感じます。
核家族に育ち、戦地での経験を持つ方から直接話を聞く機会が無かった私にとって、自分が知る限りの「兵隊帰りの気骨ある大人」の代表選手はルバング島から生還された小野田寛郎さんなのですが、その小野田さんは政府から受け取った見舞金を靖国神社に寄付したことで「軍国主義者」などの批判に晒されて日本を去りました。

国は私たちが死んだら靖国神社に祀ると約束しておいて、戦争に負けてしまったら、靖国など知らないというのは余りにも身勝手です

という主張は、視点を兵士達の側に置けば、きわめてまっとうな意見であると思います。
戦争は、「勝った側と、負けた側」「行った側と、行かせた側」「見た側と、見てない側」などなど、どの立場で語るかによって大きく異なります。一言で語ることなど不可能で、いろいろな立場で、いろいろな思いを語ってしかるべきだと思いますが、ただただ違う立場の人の気持ちにも思いをめぐらせることのできる社会であって欲しいと思います。
そしてここ何十年も、天皇陛下ご自身が靖国神社を訪れていないという現実は、靖国に眠る御霊の立場からすればとても悲しいことです。
戊辰戦争から太平洋戦争に至るまでの全ての御霊が安らかに眠れる日が一日も早く来て欲しいものと願います。


ピース!

日頃から「こども」という生物と付き合っていると、
新鮮な驚きを感じることが多々ありますが、
昨日「今世紀最大」級の、驚きの経験をしました。

インフルエンザの予防接種を受けに来た少年に、接種前の診察をして、
胸部背部の聴診を終えて、明るく
お口開けて、ガアッ〜!
と言ったところ、驚いたことに
口を大きく開けたのと同時に、

思わずピースサインをくれていた。

小児科医になってまもなく30年になりますが、
初めて経験する驚きの光景でした。

イケてる少年だった。


おなかリュック?

昨夜業務連絡をまとめて3つ書いたので、無関係なものを一つ。

この週末、所用で実家のある神奈川に行ってきたのですが、
電車に乗った時に以前よりもお腹側にリュックサックをつけている人
それも高校生などの若い人が増えているのが目立ちました。

混んだ電車の中でリュックを背負っていると、人間が一人立つだけのスペースを占領しますし、振り向いた時などには回転した本人の何倍ものスピードでリュックは回転します。
そのうえ背中には目が付いていないので、うっかり振り向いた時には運が悪いと斜め後ろの人のメガネを勢いよくぶっ飛ばします
最近では車内放送などでも協力を呼びかけていますが、まだまだ少数派です。

世の中には「文化」という言葉がありますが、面白いことに「おなかリュック」というこの文化、関西圏では関東に比べるとまだまだ浸透してないように見受けられます。
エスカレーターでの並び方一つとっても違うわけですから、地方差はあっても不思議はありませんが、都会の満員電車の中だけで成立するこの心やさしい分化が若い人たちを中心に広がってくれたら、日本はもっと暮らしやすい国になるのではないかと、おなかリュック文化のない中標津で夢見る次第です。


地方鉄道の悲哀

先日甲信越に出かけることがあり、その行程の途中で
松本駅から長野駅まで篠ノ井線(しののいせん)というローカル線の普通列車で移動しました。
篠ノ井線は中央本線と北陸新幹線開通前のかつての信越本線を結ぶ短絡路のような働きをしており、
新宿から来る特急「あずさ」は、中央本線を塩尻駅で外れてから松本駅まで篠ノ井線をわずか10kmちょっと走って松本で終着となりますが、
名古屋から来る「しなの」は塩尻から75kmほど篠ノ井線を走って終点の長野駅まで走ります。
線路は単線ですが、ローカル線とはいえ特急列車が一日15往復近く走っている主要な路線です。
走っている電車もちょっと前まで東海道線を走っていた211系電車で、ぜんぜん田舎っぽくないです。

ということで、特別な違和感も無く電車に乗り込んでビールと駅弁でつかの間の幸せを感じていたのですが、
車内の様子が、なんかおかしい
仕事帰り、学校帰りとおぼしき人たちで座れない人もいる運行でしたが、なぜか寒々とした感じがします。
よくよく車内を見渡すと、中吊り広告が無いのです。
厳密には1枚だけあるのですが、それはJR東日本からのお知らせで広告料を取ってのものではありません。
窓上の広告を張り込むスペースにも広告は1枚もありません。
唯一見かけたのは、ドアの戸袋の窓に張ってあるステッカー状の広告です。
日頃乗っていた、うるさいぐらいに広告で満たされた電車とはえらい違いです。

JR北海道の苦戦ぶりは皆さんご存知だと思いますが、ローカル線とはいえ主要な路線の電車に中吊り広告がまるで無いということは、他のJR各社も稼ぎ手の新幹線、特急、都市部の通勤電車以外では、やはり苦戦を強いられているのかと思うに至りました。
鉄道会社、みんな頑張ってほしいです。
ガンバレ!


母の日

ここ数年、母の日がある週末に『子どもの心研修会』という研修会があって、世間の動きから取り残されないようにお勉強に行ってます。
今年は会場が東京だったので、3年ほど前に「息子達の世話にはならない!」と宣言して入所した老人ホームにカーネーションを持って顔を出しました。
元気そうにしていましたが、先月『日本小児科医学会』のついでに寄った時にはそんなことはなかったのですが、16年前に夫(私の父ですが)が亡くなった事を忘れていました。
今や85才になったので仕方のないことかもしれませんが、
「ホームの暮らしも単調そうだしなぁ」
と思うと、長年連れ添った夫の最後を忘れさせてしまった責任の一端を感じて、ちょっと切ない気持ちになりました。
「北海道においでよ」
と誘ってはいたのですが、
「寒いところには行きたくない」
と言われてしまって諦めてしまった情けない次男です。
みなさんも、多少強引にでも出来る事は早目に行動して下さい。


タイヤショベル

本日、テレビニュースによると「二ヶ月ぶりのまとまった雪」が降りました。
いわゆる「彼岸荒れ」っていうやつです。
湿った重たい雪で、足腰にキツイ春の雪です。
そんな今日、当院ではタイヤショベルがデビューしました。
正式名称は「ホイールローダ」だと思いますが、地元の人はみんな「タイヤショベル」と呼んでいます。
ちなみにナチュラルイエローのボディーでおなじみの世界のKOMATSU、小松製作所のタイヤショベルなので「マツコ」と命名しました。
一足先に先月やってきた排雪作業用の軽ダンプの「ダン吉」とともにこれからの活躍が期待されています。
先週納車されたのですが、連休に出かけたりしたのでトリセツを読み込む時間も無く、思いのほか積もった重たい雪に突然の初陣となりました。
なにせ重量と馬力がありますので、うかつに扱うと舗装をはがしたり、壁を壊したりということが、いとも簡単にできてしまうのでビクビクしながら、慎重の上にも慎重を期して、「きれいにできなくってもいいから、しっかり確実にやろう!」とでっかい重機でチビチビと作業を開始しました。
チビチビでも重機は重機、すごい威力にただただ感嘆するばかりです。
その一方で「今までのあの努力は一体なんだったのだろう?」と感じる部分もありますが、感謝の気持ちを失わずに安全第一でこれからの除雪排雪に励む所存です。


二刀流

二刀流といえば、今や剣豪宮本武蔵ではなく、日本ハムファイターズ大谷翔平の代名詞となっています。
先日五十台半ばの私も「二刀流デビュー」をいたしました。

といっても、もちろん野球ではなく雪かきの世界です。
当院の駐車場が常にアスファルトを出しているのは、患者さんのためであることは第一ですが、その大きな理由は「次の雪かきを楽にする」という目的であります。

現在ホンダの中型除雪機を使って作業をしておりますが、自分の中での雪かきの基本は「ヘラに始まって、ヘラに終わる。」であります。
多い雪が降ったとき以外は幅90センチのワイドスノープッシャーで雪をかき集めて畝(うね)状にし、それを除雪機で一気に飛ばし、仕上げに残った雪をスノープッシャーで排除することによってアスファルト面をバッチリ出します。
後は顔を出したアスファルトが太陽光を吸収して、駐車場全体をドライ路面に仕上げてくれるのです。

そこまでやっておくと、次に雪が降った時には面一(つらいち)になったアスファルト上をひっかかることなくスノプッシャーで駆け抜けることができ、除雪時間が大幅に短縮されます。
入念な仕上げを怠ったり、積もった雪の上を自動車が通過して固まってしまうと、次のヘラ作業の時に引っ掛かってしまって作業が難航してしまいます。

そんなわけで、「意地でもアスファルトを出す」ということに心血を注ぐのですが、「しっかり仕上げよう!」とすると、少しばかりの雪でも「踏まれて固まって凸凹になるかもしれない。」と思うと、出動をすることになります。

一旦出動するとなると、雪の量がどんなに少なくても正面駐車場側の約600平方メートルの駐車場を仕上げるだけでも、面積をヘラの幅の0.9メートルで割り算すると666メートルとなり、スノープッシャーからどうしてもあふれてしまう雪の存在を考えるとその処理のために歩く距離は往復して倍になるので、寄せ集める作業だけで1333メートルを歩くことになり、折り返し点でのタイムロスなどを全く計算しなくても時速2キロメートルで作業をしたとしても40分は歩き続けることになります。
どんなに雪が少なくてもこれだけの時間歩き続ける必要があるのです。

この現実を目の前にして以前から
「どんなに少ない雪でも、完璧にアスファルトを出して次の雪に備えるにはこれだけの作業が必要になるんだ。それ以外の作業も沢山あるし、なんとか作業時間を短縮できないものか?」
と感じておりました。

そして、去る2月9日朝、「その時」は来たのであります。
朝目が醒めると前日からの雪がうっすらと積もっています。
わずかな雪ではありますが、アスファルトは見えず「積雪」ではあります。
できればしたくない雪かきではありますが、先々のことを考え重い腰を上げました。
雪かきを始めようとしたまさにその時、その日は敷地内数ヶ所に配置しているスノープッシャーが前回の作業工程の関係でクリニックの玄関にたまたま二つ重ねて置いてあることに気づきました。
その瞬間、頭の中で電球が光ました。
「二刀流だっ!」
早速二つのスノープッシャーを両手に一つづつ持ち、テレビでよく見かける新千歳空港の除雪チームのように少し重なるように並べて押してみました。
やってみるとテレビで見た通りの見事なフォーメーションプレーが展開されました。
今度はV字型にあわせてみるとスノープラウで大量の雪をかき集めるがごとく雪が運ばれてゆきます。
作業時間は大幅に短縮、二刀流大成功です。

でもただでさえ雪が集まってくると重くなる90センチ幅のスノープッシャー2枚を押し続けると、やっぱり相当疲れます。
当たり前か・・・


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